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- 2011.03.30 Wednesday
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H.22.12月 伝道員研修
〔第一研修〕生長の家の教義の基本 ――「自他一体」とは――
〇テキスト『生命の實相』第13巻倫理篇 永遠価値の生活学
☆人生の目的は―――この世に神の生命を顕現すること。神がこの世にあらわされた生活を示現すること。人間は「神人」、人生は「神性」でなければならない。
1.なぜ「自他は一体」なのか
現象人間は個々別々に分かれている。A者の快感はB者の快感に共通するものではなく、B者の苦痛もA者に共通するものではない。だからA者はB者の苦痛を犠牲にして、ただ自分のみの快楽を貪(むさぼ)ろうとする。これを利己的快楽主義という。それは現象人間が個々別々であるという事実の上からは当然であって、罪悪だということはできない。しかし、肉体我を唯一の「我」、本来実在と見る利己主義は、第一の神性隠蔽より生じるものである。つまり、霊的実在を包み隠して物質的存在と観、霊的人間の実相を包み隠して物質的人間と観る第一の最初の罪(原罪)を犯していることになるから、「自他一体」の事実は悟れない。
なぜなら、自他一体というのは現象界の人間のことではないからである。
利己的快楽主義が非難されるのは、天地にミチる生命の実相が、本来自他一体である事実に背反するからである。
「生長の家」で申す神とは、すべてのものの創造主(つくりぬし)であり、神があらわれてすべてのものとなったのである。だからすべてのものは、神において一体なのである。
すなわち「創造の宇宙(せいちょうのいえ)」においては神はその御親(みおや)であり、すべてのものは、その御親より出でたる御子(みこ)である。すべてのものは、御親の生命の分化であり、神において一体である。
2.「自他一体」と「神の愛」
・「神は愛なり」=神について下された最も要領を得た定義
・「自他一体なるがゆえに、なんじの隣(となり)を愛すべし」=自己と他とは一体なるがゆえに、自己はすなわち他なるがゆえに自己を愛するということは、必然他をも同時に愛しなければならない。
・何故か―――神はすべての親であるから、自己と他とは一体。「自他一体」そのものが神なのである。
・自他一体を生きるということが神を生きるということ、神をこの世に顕現するということ。「神を生きる」すなわち永遠価値の生活を生きることは「愛」を生きることにほかならない。
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3.「神は愛なり」の意義
・「神はすべてのものを自己そのものとして観給う」
・子を愛する母は、わが子をわれそのものとして観るから、子の噛んだものを口移しに食べても穢(きたな)いと感じない。すべて軽蔑の感じは自と他と相疎隔した感じによっておこる。たとえば、唾液や糞便は体内にあるうちは自己そのものの一部として感じるから穢いとは思わないが、ひとたび体外に排出し、自己と離れた感じを受けるや穢いと感じられてくる。
・「美」もそこに顕れている生命を見出し、その生命を自分の生命と同じものと感じる、すなわち自他一体の感じを受けるから「美しい」と感じる。「愛」と「美」は同じである。
・第一の誡(いまし)めは「神を愛する」こと。つまり「神と一体であると認めること」。
その中心自覚がととのわなければ、神を愛そうと努力しても、本当に神を愛することはできない。「自分は神の子である。神の子である神の生命とは一体である。自分は神そのものである。」との中心自覚がととのってこそ完全に神を愛しうる。
・われわれがその本来相において「神と一体である」という事実を肯定しなければ、われらはこの世に神の生命を顕現することもできず神がこの世にあらわれた生活を示現することもできない。人間は本来神の子であり、その本性において神そのものであるがゆえに、「本当の人間(リーアルマン)」が生活されたなら、そこに「神がこの世にあらわれたことになり、神なる生命がこの世に示現した」ことになる。
4.最上階の愛を目指して
三種の愛:第一階は愛した結果の利益を予想する功利的愛
第二階は相手が喜んでくれるから愛する、求める愛,
執着の愛、特定の他者に対する愛
第三階の愛は自分を脱却した惟神(かんながら)の愛,無償
の愛、最上階の愛、 仏の心である四無量心こそ真の愛
○四無量心について――谷口雅宣先生のご指導(白鳩会機関誌H.22.2
月号より)
慈悲喜捨の無量に深い心、神の無限の愛とも言い換えることがで
きる。
苦しめる者を可哀そうに思い、その苦しみを抜いてやり、楽を与えてやりたいという心。他(ひと)の喜びをみて、自分もまた喜ぶ心。最後の捨徳こそ四無量心を完成する。
私達人類は今後この四無量心を自然に対しても表現していくことが重要な目標になってくる。自然の生物多様性が破壊され、多くの生物種が絶滅することを悲しく思い、
多くの生物種の繁栄を楽しむ――そういう心を多くの人間が起こすことができれば、人類と自然の共存はもっとうまくいく。自然との関係において、快楽を得るためではなく、執着を絶って、“放つ愛”に向かう方向に魂を向上させることが“自然と共に伸びる運動”と言える。その実現のために「自然に対して四無量心を行じる」生き方が、宗教でなければできない、自然を守り環境を大切にする生き方である。
5.第二の神性隠蔽について
第一の神性隠蔽としての罪は「神我一体の実相」を隠している罪、第二の神性隠蔽としての罪は「自他一体の実相」を隠している罪であり、「罪の清め」とは真性開顕ということでなければならない。
誰でも、なんらかの形式で、自己と他とを結び合わして、そこに自他一体の事実を形にあらわして喜ぶ。恋愛、友情、学閥、政党、同志愛、同胞愛、愛国心すべて自他一体の実相が、その一面のすがたをあらわしたものである。それら極限された狭い範囲の自他一体が、より大きく広い範囲の自他一体に高まるに従って、人類全体に対する貢献の程度も大きくなる。それを「愛の浄め」という。
罪は蓄積されて飽和点以上に達すると、自然に自壊し、表面にあらわれて具象化しはじめ、病気其の他の不幸となってくる。より大なる自他一体に進展しようとしない小さな自他一体の団体は、一時大いに発展するようにみえても、やがてそれ自身立つことができなくなる。
人間の幸福は自己自身の真性(神性)にあるから、それに反して利己主義の満足に幸福を求めても本当の幸福は得られない。自分ひとりの生命を守るために全体の生命を忘れてしまって、自分自身の生命の中にのみ幸福を得ようとする結果、かえって全体の生命からの供給が絶え、生命が枯渇し、幸福は味わえなくなる。古来から言うミタマノフユ(全体の生命からくる恵み)があって初めて本当の幸福感が味わえる。
5.「自他一体」と個性生命
自他一体、神我一体の事実を認めることが倫理の根本であり、あらゆる善徳がここから流れ出る。それなら普遍的大我のみあって、個性生命は無いのか。
そういう思想もあるが、「生長の家」は個性を発揮すればするほど、全体の生命の中に溶け込むことになると説く。個性を生かせば生かすほど全体の生命に貢献することになる。
個性とはその位置におかれたる小生命が与えられた使命であり、役割である。個性とはその人でなければ、他のものにはできないところの特色でなければならない。
「自他一体」の生命を生きるとか、「全体の生命」を生きるということは、おのおのがもっとも完全な個性を発揮して、そのため全体がいっそう完全にその生命の目的を達することにある。
6.「いのちのゆには」の神示について
「求道と伝道のために」より谷口雅春先生のお言葉
現象の人間を見れば、人間は物質的肉体のように見えて個々別々である。しかしそのすがたは仮相であって、ほんとうの相ではないのに、それを思い誤まっていて、相手と自分とは別々の対立者だと思って争う。だから「人間生命は本来一体だという実相を知らせてやりたい」と神様が慈愛の念を起されて、私を「万年筆」代わりとして『生命の實相』の本を書かしめられた。このことを「いのちにゆには」の神示には“「仮相」を実相だと思い誤まり、皆が苦しんでいるのが可哀相であるから、さきには智慧の光で迷いを照破するために、聖典『生命の實相』を造らせたのである”と示されている。続いて“神縁深い人は「此の神縁をおろそかにせずに人に伝えて尚々多くの兄弟を救うよう協力せよ」”と示されている。自分だけ悟りを得たら好い、自分だけ救われたら好いというような心境では、一種の利己主義であって、決して「実相」を悟ったということはできない。何故なら、人間生命の実相(ほんとのすがた)は、“神に於いて人間は自他一体”であるから、他(ひと)を救わないでいて、自分が救われるということはあり得ないのに、自分だけ救われたと考えることは一種の迷妄であるからである。
7.谷口雅宣先生のご指導
2009年9月23日、秋季慰霊祭でのご挨拶より
「自分はもっと求道をしたいのだが、組織から伝道の要請があって充分求道ができないから伝道の役目はやめてしまいた。」という質問へのお答え。
宗教の悟りには、また宗教運動には「自他一体」の要素がなければならない。自分だけが生きているのではなく、すべての人々や環境との間に“愛”で結ばれているのが自分である。そういう自覚が必要です。つまり、「すべては一体」の自覚です。これは言葉で聞いてすぐに分かるものではなく、また頭で分かっても、実際生活の中で実践し、実感するのでなければ本物ではありません。生長の家の「大調和の神示」の中にも、そのことが次のように書かれています。
「神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波をよう受けぬ」
他の人々とも一体であるという愛の自覚が生まれたならば、何かの形で「光明化運動をしたい」「組織の仲間とともに伝道をしたい」という気持ちが起こるはずです。自分だけ求道のための勉強に集中するのがよくて、他の人々へのお世話や伝道などご免こうむるというのでは、自他が対立していますから、「神の救いの念波をよう受けぬ」ということになるでしょう。また、聖経「真理の吟唱」には「生長の家の礼拝の本尊は観世音菩薩である」と書かれていますが、この観世音菩薩の最大の役割は「菩提心を起こして己れ未だ度(わた)らざる前に、一切衆生を度さんと発願修行する」(『聖使命菩薩讃偈』)ことです。「自分さえ早く教えの神髄に到達すればいい」というのは一種のエゴイズムでもあるわけです。その道そのものが悪いわけではありませんが、それだけだは充分ではない。他の人や行事への参加が真理によって救われるのを目撃することで、喜びは倍加し、本当の意味での自他一体の愛が自覚されるものです。その実感が本当の悟りに私たちを導いてくれるのです。
※愛の種々の段階について『愛はかくして完成す』より
全体の人間が一体であるという根本的次元の次に分化した次元、個別的次元に於いては色々の段階の愛が生ずる。個人が国家を形成するとき、国民互いに相愛するという次元の愛を生ずる。個人が集団して社会を形成するとき同一社会人の愛を生ずる。家族には家族愛、夫婦には夫婦愛、親子には親子愛を生ずる。本当の愛は神聖な理性的意志である。
文責 西村世紀子
ここまで読んでいただきありがとうございました。レジュメをそのまま貼り付けましたので、お見苦しい画面になってしまいました。N教化部長のご指導で初めての試みです。ご意見を聞かせていただけましたら、幸甚に存じます。