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  • 2011.03.30 Wednesday
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引っ越しのご挨拶

 いつも、このブログにご訪問くださる皆様、ありがとうございます。
本当に、温かいお気持ちを沢山ありがとうございます。
ご連絡が遅くなりましたことも、改めておわび申しあげます。

ブログの引っ越しをいたしました。
その後もまたまた休載が続き、お知らせをためらっておりましたが、やっとなんとか続いていけそうです。今後はどうぞ引っ越し先へご訪問くださいませ。
お待ち申し上げます。http://kotohime-iwami.cocolog-nifty.com/blog/

これまでもこれからもどうぞよろしくお願い申し上げます。

「春来たる ブログ引っ越し 時新た」

    
アネモネ

温(ぬく)め合い

 マリンとチャンス

  「霜夜には 温め合いたる 母子犬」

左が生後4カ月と少しのチャンスです。なんとまあ!こんなに大きくなったのか、と毎日見ていても思うくらい成長が早いのです。
もっと広い場所がいくらでもあるのに、狭いケージに寄り添って眠ります。
人間より少し体温が高い犬同士、暖め合って冬を過ごすので安心です。
特に母犬は、昨年の冬に5年間を共に暮らしたもう一匹を亡くしてからは、寂しさをにじませていましたので、こうして母子が一緒の姿は、あらためて良かったと喜んでいます。

「自他一体」「四無量心」を学ばせていただき、”愛”を生きることこそ神の命を生きることなのだと、肝に銘じました。
支えアイ、温めアイ、与えアイ、の”合い”を変換すると”愛”が出てきます。

本日、第429回出雲短期練成会が終了いたしました。
私は家庭の事情もあり、昨第2日目に少しの時間だけ参加させていただきました。
それでも、12月半ばの多用な時期に神の子の皆様が、大勢ご参加なさっておられ、素晴らしいことと、讃嘆させていただきました。
きっとそれぞれのご家庭で、愛を行じる生活を続けて、その愛を大きく広げていかれることでしょう。
総裁谷口雅宣先生も、簡単なことではない、とおっしゃっておられます。
私達信仰に生きる者は、高き理想を掲げて、目標にむかって邁進してまいりたいものです。

今日も、与えることのできた”愛”を日時計日記に記し、いただいた沢山の”愛”への感謝も記して休ませていただきます。神様素晴らしい一日をありがとうございました。

総裁谷口雅宣先生のブログを拝読いたしましょう。
http://www.masanobutaniguchi.com/

自他一体

 シクラメン蕾

   「幼くば お辞儀深くて シクラメン」

H.22.12月 伝道員研修

〔第一研修〕生長の家の教義の基本 ――「自他一体」とは――

〇テキスト『生命の實相』第13巻倫理篇 永遠価値の生活学

 

☆人生の目的は―――この世に神の生命を顕現すること。神がこの世にあらわされた生活を示現すること。人間は「神人」、人生は「神性」でなければならない。

 

1.なぜ「自他は一体」なのか

現象人間は個々別々に分かれている。A者の快感はB者の快感に共通するものではなく、B者の苦痛もA者に共通するものではない。だからA者はB者の苦痛を犠牲にして、ただ自分のみの快楽を貪(むさぼ)ろうとする。これを利己的快楽主義という。それは現象人間が個々別々であるという事実の上からは当然であって、罪悪だということはできない。しかし、肉体我を唯一の「我」、本来実在と見る利己主義は、第一の神性隠蔽より生じるものである。つまり、霊的実在を包み隠して物質的存在と観、霊的人間の実相を包み隠して物質的人間と観る第一の最初の罪(原罪)を犯していることになるから、「自他一体」の事実は悟れない。

なぜなら、自他一体というのは現象界の人間のことではないからである。

利己的快楽主義が非難されるのは、天地にミチる生命の実相が、本来自他一体である事実に背反するからである。

「生長の家」で申す神とは、すべてのものの創造主(つくりぬし)であり、神があらわれてすべてのものとなったのである。だからすべてのものは、神において一体なのである。

すなわち「創造の宇宙(せいちょうのいえ)」においては神はその御親(みおや)であり、すべてのものは、その御親より出でたる御子(みこ)である。すべてのものは、御親の生命の分化であり、神において一体である。

 

2.「自他一体」と「神の愛」

・「神は愛なり」=神について下された最も要領を得た定義

・「自他一体なるがゆえに、なんじの隣(となり)を愛すべし」=自己と他とは一体なるがゆえに、自己はすなわち他なるがゆえに自己を愛するということは、必然他をも同時に愛しなければならない。

・何故か―――神はすべての親であるから、自己と他とは一体。「自他一体」そのものが神なのである。

・自他一体を生きるということが神を生きるということ、神をこの世に顕現するということ。「神を生きる」すなわち永遠価値の生活を生きることは「愛」を生きることにほかならない。

               1

3.「神は愛なり」の意義       

・「神はすべてのものを自己そのものとして観給う」

・子を愛する母は、わが子をわれそのものとして観るから、子の噛んだものを口移しに食べても穢(きたな)いと感じない。すべて軽蔑の感じは自と他と相疎隔した感じによっておこる。たとえば、唾液や糞便は体内にあるうちは自己そのものの一部として感じるから穢いとは思わないが、ひとたび体外に排出し、自己と離れた感じを受けるや穢いと感じられてくる。

・「美」もそこに顕れている生命を見出し、その生命を自分の生命と同じものと感じる、すなわち自他一体の感じを受けるから「美しい」と感じる。「愛」と「美」は同じである。

・第一の誡(いまし)めは「神を愛する」こと。つまり「神と一体であると認めること」。

その中心自覚がととのわなければ、神を愛そうと努力しても、本当に神を愛することはできない。「自分は神の子である。神の子である神の生命とは一体である。自分は神そのものである。」との中心自覚がととのってこそ完全に神を愛しうる。

・われわれがその本来相において「神と一体である」という事実を肯定しなければ、われらはこの世に神の生命を顕現することもできず神がこの世にあらわれた生活を示現することもできない。人間は本来神の子であり、その本性において神そのものであるがゆえに、「本当の人間(リーアルマン)」が生活されたなら、そこに「神がこの世にあらわれたことになり、神なる生命がこの世に示現した」ことになる。

 

4.最上階の愛を目指して

三種の愛:第一階は愛した結果の利益を予想する功利的愛

      第二階は相手が喜んでくれるから愛する、求める愛,
          執着の愛、特定の他者
に対する愛

  第三階の愛は自分を脱却した惟神(かんながら)の愛,無償
          の愛、最上階の愛、 
仏の心である四無量心こそ真の愛

 ○四無量心について――谷口雅宣先生のご指導(白鳩会機関誌H.22.2
   月号より)
   

  慈悲喜捨の無量に深い心、神の無限の愛とも言い換えることがで
  きる。 

  苦しめる者を可哀そうに思い、その苦しみを抜いてやり、楽を与えてやりたいという心。他(ひと)の喜びをみて、自分もまた喜ぶ心。最後の捨徳こそ四無量心を完成する。

 私達人類は今後この四無量心を自然に対しても表現していくことが重要な目標になってくる。自然の生物多様性が破壊され、多くの生物種が絶滅することを悲しく思い、

 多くの生物種の繁栄を楽しむ――そういう心を多くの人間が起こすことができれば、人類と自然の共存はもっとうまくいく。自然との関係において、快楽を得るためではなく、執着を絶って、“放つ愛”に向かう方向に魂を向上させることが“自然と共に伸びる運動”と言える。その実現のために「自然に対して四無量心を行じる」生き方が、宗教でなければできない、自然を守り環境を大切にする生き方である。

 

5.第二の神性隠蔽について

第一の神性隠蔽としての罪は「神我一体の実相」を隠している罪、第二の神性隠蔽としての罪は「自他一体の実相」を隠している罪であり、「罪の清め」とは真性開顕ということでなければならない。

誰でも、なんらかの形式で、自己と他とを結び合わして、そこに自他一体の事実を形にあらわして喜ぶ。恋愛、友情、学閥、政党、同志愛、同胞愛、愛国心すべて自他一体の実相が、その一面のすがたをあらわしたものである。それら極限された狭い範囲の自他一体が、より大きく広い範囲の自他一体に高まるに従って、人類全体に対する貢献の程度も大きくなる。それを「愛の浄め」という。

罪は蓄積されて飽和点以上に達すると、自然に自壊し、表面にあらわれて具象化しはじめ、病気其の他の不幸となってくる。より大なる自他一体に進展しようとしない小さな自他一体の団体は、一時大いに発展するようにみえても、やがてそれ自身立つことができなくなる。           

人間の幸福は自己自身の真性(神性)にあるから、それに反して利己主義の満足に幸福を求めても本当の幸福は得られない。自分ひとりの生命を守るために全体の生命を忘れてしまって、自分自身の生命の中にのみ幸福を得ようとする結果、かえって全体の生命からの供給が絶え、生命が枯渇し、幸福は味わえなくなる。古来から言うミタマノフユ(全体の生命からくる恵み)があって初めて本当の幸福感が味わえる。

 

5.「自他一体」と個性生命

自他一体、神我一体の事実を認めることが倫理の根本であり、あらゆる善徳がここから流れ出る。それなら普遍的大我のみあって、個性生命は無いのか。

  そういう思想もあるが、「生長の家」は個性を発揮すればするほど、全体の生命の中に溶け込むことになると説く。個性を生かせば生かすほど全体の生命に貢献することになる。

  個性とはその位置におかれたる小生命が与えられた使命であり、役割である。個性とはその人でなければ、他のものにはできないところの特色でなければならない。

  「自他一体」の生命を生きるとか、「全体の生命」を生きるということは、おのおのがもっとも完全な個性を発揮して、そのため全体がいっそう完全にその生命の目的を達することにある。

 

6.「いのちのゆには」の神示について

「求道と伝道のために」より谷口雅春先生のお言葉

現象の人間を見れば、人間は物質的肉体のように見えて個々別々である。しかしそのすがたは仮相であって、ほんとうの相ではないのに、それを思い誤まっていて、相手と自分とは別々の対立者だと思って争う。だから「人間生命は本来一体だという実相を知らせてやりたい」と神様が慈愛の念を起されて、私を「万年筆」代わりとして『生命の實相』の本を書かしめられた。このことを「いのちにゆには」の神示には“「仮相」を実相だと思い誤まり、皆が苦しんでいるのが可哀相であるから、さきには智慧の光で迷いを照破するために、聖典『生命の實相』を造らせたのである”と示されている。続いて“神縁深い人は「此の神縁をおろそかにせずに人に伝えて尚々多くの兄弟を救うよう協力せよ」”と示されている。自分だけ悟りを得たら好い、自分だけ救われたら好いというような心境では、一種の利己主義であって、決して「実相」を悟ったということはできない。何故なら、人間生命の実相(ほんとのすがた)は、“神に於いて人間は自他一体”であるから、他(ひと)を救わないでいて、自分が救われるということはあり得ないのに、自分だけ救われたと考えることは一種の迷妄であるからである。

  

7.谷口雅宣先生のご指導

2009923日、秋季慰霊祭でのご挨拶より

                 

「自分はもっと求道をしたいのだが、組織から伝道の要請があって充分求道ができないから伝道の役目はやめてしまいた。」という質問へのお答え。

宗教の悟りには、また宗教運動には「自他一体」の要素がなければならない。自分だけが生きているのではなく、すべての人々や環境との間に“愛”で結ばれているのが自分である。そういう自覚が必要です。つまり、「すべては一体」の自覚です。これは言葉で聞いてすぐに分かるものではなく、また頭で分かっても、実際生活の中で実践し、実感するのでなければ本物ではありません。生長の家の「大調和の神示」の中にも、そのことが次のように書かれています。

 

「神に感謝しても天地万物に感謝せぬものは天地万物と和解が成立せぬ。天地万物との和解が成立せねば、神は助けとうても、争いの念波は神の救いの念波をよう受けぬ」

 

他の人々とも一体であるという愛の自覚が生まれたならば、何かの形で「光明化運動をしたい」「組織の仲間とともに伝道をしたい」という気持ちが起こるはずです。自分だけ求道のための勉強に集中するのがよくて、他の人々へのお世話や伝道などご免こうむるというのでは、自他が対立していますから、「神の救いの念波をよう受けぬ」ということになるでしょう。また、聖経「真理の吟唱」には「生長の家の礼拝の本尊は観世音菩薩である」と書かれていますが、この観世音菩薩の最大の役割は「菩提心を起こして己れ未だ度(わた)らざる前に、一切衆生を度さんと発願修行する」(『聖使命菩薩讃偈』)ことです。「自分さえ早く教えの神髄に到達すればいい」というのは一種のエゴイズムでもあるわけです。その道そのものが悪いわけではありませんが、それだけだは充分ではない。他の人や行事への参加が真理によって救われるのを目撃することで、喜びは倍加し、本当の意味での自他一体の愛が自覚されるものです。その実感が本当の悟りに私たちを導いてくれるのです。

 

 

※愛の種々の段階について『愛はかくして完成す』より

 全体の人間が一体であるという根本的次元の次に分化した次元、個別的次元に於いては色々の段階の愛が生ずる。個人が国家を形成するとき、国民互いに相愛するという次元の愛を生ずる。個人が集団して社会を形成するとき同一社会人の愛を生ずる。家族には家族愛、夫婦には夫婦愛、親子には親子愛を生ずる。本当の愛は神聖な理性的意志である。

 

 

                     文責 西村世紀子

ここまで読んでいただきありがとうございました。レジュメをそのまま貼り付けましたので、お見苦しい画面になってしまいました。N教化部長のご指導で初めての試みです。ご意見を聞かせていただけましたら、幸甚に存じます。

 

 

 

 http://www.masanobutaniguchi.com/総裁谷口雅宣先生のブログを拝読いたしましょう。

 

 

 

 

 

 


干し大根

栗原家の干し大根 

   「雨風に さらして 美味し干し大根」

地区連長さんのお宅でお見かけいたしました。地区連長会議の帰りです。
雨や寒風に打たれ、さらされ、甘み、旨みを増す大根は漬物に。
日本の大事な保存食です。

人生も困難を乗り越えて昇華されるのでしょう。
私のブログにご訪問くださる皆様、いつもありがとうございます。
お一人お一人の人生は決して平たんではなかったでしょう。
これからもきっと艱難や困難が現象世界には顕れることでしょう。

しわしわの美味しい大根のように、み教えによって旨みの増した人生が、きっと他の人達を幸せに導くことでしょう。
私の写真や俳句が少しでも皆様の心を和ませることが出来ましたら幸いです。
明日からは「自他一体」について連載する予定です。
どうぞお楽しみに!

生長の家総裁、谷口雅宣先生のブログをどうぞ拝読ください。
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障子張り

 障子洗い

   「束の間の晴れ間をねらい 障子張り」

山陰の冬は晴れ間が少なく、チャンスをとらえないと、洗った障子が乾きません。
三日前、ちょうどよい天気に恵まれ、とりあえず2枚張り替えました。
師走は何をするにしても、一日一日が貴重に思えますね。

伝道員研修会のレジュメ作成で、また深い勉強をさせていただいています。
N教化部長のご指導をいただきましたら、またその内容を連載する予定です。
それまで、閑話休題。

気ぜわしい師走に、先日はテレビで映画をとうとう全編見てしまいました。
チャンネル権はほとんど良人で、2時間ものを私が見ることはめったにありません。
話題になった映画だったことは知っていましたが、あらすじもほとんど知らず、最初は途中まででいいや、などと思っていましたが、目が離せなくなってしまいました。
その映画は「北の零年」です。皆様ご存じですか。
吉永小百合さんのなんと素晴らしいことか!と数日たった今でも感動が続いています。
深い愛、信頼、赦し、使命、自他一体等、多くを学ぶ内容だったと思います。

渡辺謙さんが最後までかっこよい役かと思っていたら、意外な結末で驚かされました。
山陰の曇天など比べものにならないくらい厳しい寒さの北海道が舞台でした。
昔の日本人のすごさを知らされた映画でした。
お勧めいたします。機会がありましたら、是非感動を味わってください。

生長の家総裁、谷口雅宣先生のブログを日々拝読いたしましょう。
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銀杏散る

 銀杏のお菓子

   「銀杏散る 鮮やかな色 そのままに」

お干菓子をいただきました。あまりに綺麗なので写真に残したくなりました。
下さった方のお人柄が忍ばれるお菓子です。
”銀杏落葉””銀杏散る”は冬の季語です。他の木にくらべ黄葉も落葉も遅いという説明があります。
そういえば、このお菓子の色のまま散っていたなあ、と思いました。

『生命の實相』第7巻生活篇より第18項
【家庭生活を光明化せよ】
いよいよ最後の項目になりました。
一番身近な、大切なご指導です。
「本当の善き家庭は天国である。」「家庭は神の子同士が神の子の生活を実現するための道場なのである。」という根本的態度がきまることが、家庭浄化の基礎である、とお示し下さっています。
そして、なんでもないことのようで、ハッとする細やかな御指導が続いて、「お菜(かず)の小言を言わない」「名前を呼びつけにしない」と、具体的に挙げられているのです。
皆様のご家庭はいかがですか。
我が家では、お菜の小言はほとんどありませんが、正直な味の感想は言ってくれますので、次の参考にいたします。今日のお干菓子は”これは美味しい!”と感心していました。
名前については私は夫を”さん”付けで呼びますが、夫が私をそう呼ぶのはほんのたまに、冗談めかしてですので、照れくさいのかもしれません。お子様や兄弟同士、さん付けで呼ぶ家庭は素敵ですね。「神の子らしい洗練された美しい言葉使い」を、と同時にご指導下さいますので、いつも心がけたいものです。ちょっとした心がけは、大きな変化を家庭にもたらすものです。
そういえば、かつては結構荒らしい言葉が良人から出ていて、悲しい時もあったなあ、と思い出しました。ということは、最近いつの間にか言葉使いが優しくなっているのです。
とても嬉しい気付きでした。
「『神の子』なる良人、妻、子を観る。『神性』において家族互いに相手の実相、本物を観、祈ること。和顔、愛語、讃嘆、感謝に満たされた家庭に調和と健康と円満がもたらされる。」
尊いご指導はこうして私達が家庭生活をより幸せにより豊かに健康に・・・と無限生長の道をお示し下さってこの『生命の實相』第7巻を貫いています。
私がご紹介した部分はほんのわずかです。どうぞ全編を通して、是非拝読くださいませ。

総裁谷口雅宣先生のブログを拝読いたしましょう。
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木枯らし

 たてがみの郷夜景

   「木枯らしや 重たき雲を 動かせず」

一日強い北風が吹き荒れました。
歩行者がよろけそうでした。
12月の風物詩ですね。とても寒く感じましたが、まだ平年よりは気温が高かったようです。
夕方も庭の木々がひどく揺れ、全てを揺らしているような木枯らしです。
空には冬の雲が重く垂れこめていました。
雲だけは風に流されてはいないように見え、そんなに”重い”のかな?などと思って一句。

玄関から見える老健施設の中はぬくぬくと、どんな木枯らしからも皆様を守っていただいて、ありがたいことです。それでもヒューヒューと音だけは聞こえていたでしょうか。

『生命の實相』第7巻生活篇より第17項は
【天地の開ける音を聞け】です。

「この天地は神が働き給うことによってのみ開かれたのだから、われらもまた働くことによってのみ、新天地の開ける音を聞くことができる。」というご指導です。
働かないものには天地の開ける音を聞くことはできないのです。
では”新天地が開ける”とはどういうことなのでしょう。
「小さなる『我』が脱落して、自由な伸び伸びした愛の世界に出られるということ」と谷口雅春先生はおっしゃいます。収入のために働くという殻を破り、広く全体のために働く時、大我の大きな世界、新天新地が目の前に開かれる、と。
私にはまだこの”音”が聞こえません、けれども谷口雅春先生のご指導のままに、ただひたすらに信仰を深めようと思っています。それは決して目立つハタラキをしなければばらぬということはない、という優しいお言葉に従って、です。
「もっているものがいかに小さくとも、それを献(ささ)げるとき無限に大きな献げ物になる。これは神秘の愛の魔術的力である。―――これこそ本当の生長の家の生活。」と結ばれています。

今日も総裁谷口雅宣先生のブログを拝読いたしましょう。
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冬茜(あかね)

 冬夕焼け

   「平和なる地球を染めし 冬茜」

昨日の夕方、真っ赤に染まった夕焼けに出会いました。田園の向こうの山に沈む夕日は、見えなくなってしばらくは美しい色を残してくれました。
穏やかな冬日の中で、こんなにも静かな世界にたたずむと、実相の地球は平和そのものだ、という気持ちがいたしました。
たとえ紛争の国でも、隔てなく照らす太陽の力と空に創りだす美は、平和そのものではないでしょうか。現象世界にも平和が実現するよう、「世界平和の祈り」を深めたいものです。

『生命の實相』第7巻生活篇より第16項
【艱難(かんなん)を光明化せよ】

「人間は『神の子』として、どんな境遇に置かれても、心に光明を保ち、表情にも態度にも生き生きとその光明を表現し、常に気高く、喜ばしく、快活にどんな障害に面するとも、いやしくも屈しない生命の美を、この世界を素材としてきざみつけて行くことが生命の自然性である。生命の自然性に従うとき万物は生かされる。」
なんと格調高いご文章でしょう。どうぞ声にだして拝読してみてください。
谷口雅春先生のお声が聞こえてくるような気がしませんか。

「神にゆだね、神にまかせ、いずこにも救いを見、いずこにも光明、摂理を見、無限力にまかせきって、たゆまず、屈せず生きて行くことが、神と偕(とも)に生きるということである。」ともご指導賜ります。

今艱難に見舞われていると思っていらっしゃる方がございましたら、きっとこのご指導が、勇気をお与えくださることでしょう。そうして、潜んでいた力が掘り起こされ、その力を発揮して、笑顔で乗り越えて行かれることでしょう。それくらい谷口雅春先生のご文章には大きな力があるのです。
『生命の實相』は拝読すればするほど、力を与えられるのです。
どうぞこれを機に、何度でも拝読なさって下さい。

総裁谷口雅宣先生のブログもともに拝読いたしましょう。
http://www.masanobutaniguchi.com/

短日

 たてがみの郷増築

向かいの老健施設の増築工事が進んでいます

たてがみの郷増築

   「短日や 普請の音も 忙(せわ)しなく」

先日棟上げがなされ、屋根に瓦が敷かれます。本館も三階建の屋根は瓦です。講習会では、谷口純子先生が島根の伝統的な建築物が赤(茶)や黒の瓦とともに印象的でした、とご講話の初めにお話しされました。

出雲の景色のことですが、こちら石見も石州瓦の産地です。
最近は瓦を使わない建物が増え、瓦産業も販路開拓に頑張っておられるようです。

『生命の實相』第7巻生活篇より
第15項
【共通的生命の歓喜のために働け】
「人は『迷い』にとらわれて、利己的行為をとり、他人を犠牲にすることがあり、かえって、自己の魂が苦しむことを経験する。他人の苦しみを見ることが自分の苦しみであることを体験し、自分と他人が『共通の生命』によって繋がっていて、本質が一つのものであることを感じる。自分を喜ばすためのは、同時に他人をよろこばさなかれば本当の深い歓喜は味わえないということに気がつく。」
全18項目の後半になりますと、ご指導がさらに深くなってまいります。
講習会での総裁、谷口雅宣先生のご講話にも「四無量心」のご指導がございました。他人だけでなく人間以外の動物や鉱物にさえ、この「四無量心」を行じることをご指導下さいました。
他の苦しみも他の喜びも自分のものとして感じる、それは「自他一体」だからです。

谷口雅春先生のご指導は続いて、「最初は義務として、やむをえずしていた善事が、おのずから内から催してくる歓びのためになしうるようになる。」「義務を背負って歩く進軍が厳かであればあるほど、その進軍がひたすらであればあるほど、早く愛の歓喜――共通的生命の歓喜に到達する。」と結ばれています。私達は組織の会員として、また拝名させていただいている使命、お役をひたすら務めさせていただく中に、この歓喜を味わわせていただくのです。
私にとっては総連長のお役は、”厳か”なものです。こうして講習会の推進の中に、ご参加の方の感動の中に、大きな歓びがあったことを振り返ります。神様からのご褒美です。ありがとうございます。

総裁谷口雅宣先生のブログを日々拝読いたしましょう。
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雑木紅葉(ぞうきもみじ)

 雑木紅葉

   「紅も黄も 変わらぬ緑と 錦(にしき)なす」

国道9号線より海側に向かって約1キロに我が家は位置します。
逆に山側に折れて約300メートルの辺りの景色です。
もみじがそれぞれに晩秋を彩り、美しさを増しています。
それは常緑あってこそ映えるのではないでしょうか。
紅葉黄葉に褐色がまじり、緑と相まって一幅の絵画。
雑木だけにより趣があると思えます。
変わりゆく現象の中に、変わらぬ真象をみつめ、真理を追究して行きたいものです。

『生命の實相』第7巻生活篇を続けます。
第14項【断じて失敗を予想せざる者はついに勝つ】

「自己の本性の偉大さ、自己に宿る神の無限力を自覚する者は目的を貫徹する。」
「何よりもまず自分自身を信じることが必要である。『まだまだどれだけでも力がでる』と思うのが本当の自信である。自信は無限生長の原動力となる。」
と谷口雅春先生は、大切なことをご指導下さっています。
過信ではない本当の自信を皆様自覚なさっていらっしゃいますか。
かく言う私は、自信が揺らいでいるのではないかと感じることが多々あり、”まだまだまだまだ”と思い返すようにしてきた、というのが正直なところです。
「いか程の窮地に立つとも、自信だにあれば必ず道はひらける。」というご指導は、今まで窮地を乗り切ってきたのだから、どこかに自身を信じていたのだ、と納得してみたり・・・

「『われ神と偕(とも)になす、それゆえに必ず成就す』と信ぜよ。」強い信念、強い確信を常に支えとして、人類光明化運動に邁進して行きましょう。
既に新しい目標が皆様それぞれの前に掲げられたことでしょうから。

総裁谷口雅宣先生のブログを拝読しながら、目標に向かいましょう。
http://www.masanobutaniguchi.com/

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